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  2. 氷室の足跡

掲載日:2025年1月17日

宇陀氷室

 宇陀氷室という名称は一般には使用されていないが、宇陀地方には多くの氷室の伝承があり、この地方の氷室をここでは宇陀氷室と呼ぶ。宇陀地方は、飛鳥の東側に位置し、神武天皇が即位する前に熊野から吉野をへてたどり着いたところで、宇陀の豪族である兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)に服従するように伝えたところ、オトウカシは従いエウカシは神武天皇の暗殺を企てたが、オトウカシの密告により失敗に終わる記載が記紀にある。このオウトガシが王権に水・氷を調達することを主な仕事とする菟田主水部(うだもひとりら)の遠祖とされる。

 宇陀で氷室が使われた時期は不明であるが、1917年刊行の奈良縣宇陀郡資料に宇賀志村佐倉、宇賀志村大字入谷、政始村上品、榛原町大字上井足、三本松村が記載されている。三本松村には氷室の塚穴として奥行二間、高さ六尺、幅五尺五寸位と記載されている(室生村史では大野塚穴古墳の玄室)。入谷には氷池に加え氷室社の跡があったと記載されている。また、「兎田野町史(1968年出版)には伝説として、氷室:仁徳天皇の御代に諸所に氷室があった。大宝律令には氷室の司をも定められている。入谷のコホリダニは天然の氷を貯蔵したとこで佐倉の氷室は氷製造所のあったところといわれる。毎年六月一日各地の氷室から宮中また司家に氷をたてまつった。村人は氷が得難いのでキリコ・カキ餅を食べて歯をカチカチならし氷を食べる真似をしてはがためをした。これが歯固めの起源とされている。氷室跡:大字入谷に氷谷という深い谷がある。南に山をうけて谷あり滝あり影地になっている。南北朝の頃に氷を貯蔵して吉野の朝廷に夏期氷を献上していた。大字の東北のすみの杉山の中を字コウリという。今も氷室池や氷室社跡がある。また、「大和名所記」あるいは「宇陀旧事記」は次の歌を引用している。

草根 都まで涼しかれとや通ふらん 宇陀の氷室にくるる山風

 上記の氷室跡とは別に兎田野松井下にある称名寺と天神社の裏山で氷室跡と推定さえる大型穴が多数見つかっている。氷室跡は二つの丘陵の斜面に設けられている。「都祁氷室に関する一考察(川村和正著)」によれば称名寺側に直径5~8mの大型穴が6基、天神社側に4~10mの大型穴が7基からなり、一か所の氷室数としては最大級である。多数の氷室を設ける場合、二つの丘陵を挟んだ谷間に氷池を設け、両丘陵の氷室を設ける方式が多くみられる。写真の天神社側氷室跡1は大型穴の一つ、氷室跡2には斜面に沿って三基の大型穴が見れる。

 天神社側氷室跡は本殿の社すぐ裏にあるが天神社の創建は、由来所によれば元禄以前にさかのぼれるが詳細は不明となっている。また、天神社は本殿中心に天御中主大神を、左右に天照皇大神、天児屋大神を祀っており、氷あるいは水とはあまり関係が見られない。都祁の葛神社(奈良市藺生町)と氷室跡の関係に酷似している。

称名寺の裏山(左)と天神社の裏山(右)

称名寺の裏山(左)と天神社の裏山(右)

氷室跡1縮小

天神社側氷室跡1

氷室跡2縮小

天神社側氷室跡2


氷室跡1縮小

天神社1

氷室跡2縮小

天神社2


 宇陀の氷室伝承地は、玄室とされる三本松の氷室の塚穴を除いても南北に8km、東西に3kmの広い範囲に分布しており実用に用いられていた期間が長いと推察される。しかし、兎田野松井下以外は氷室跡と推定される大型穴も発見されていない。伝説にある宮中は位置的には藤原、飛鳥京に加え南朝の吉野行宮と推定される。ただし、藤原京から南朝までは600年以上の隔たりがあり、その間の利用も含め具体的なことは何もわかっていない。藤原京以前は残された文献は極めて少なく、また、南朝も焼き討ちにあっており新たな発見の可能性は少なく、推測にたよるしかない。

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