2025年1月17日更新
都祁氷室
つげは都祁󠄀、都介、闘鶏とも記載される。氷室神社のある福住町は天理市であるが、旧都祁村は2005年に奈良市に編入された。この地方は大和高原の中央に位置し、写真に見られるように標高480m前後の高原に数10から200mの丘陵が多くみられる。氷室跡と推定される大型穴の遺構がこれらの丘陵地帯に設けられ、一つの丘陵に複数の遺構が見受けられる。
貝那木山城跡から都祁地方を望む
次の写真は氷室神社のある室山の氷室跡と葛神社(奈良市藺生町)裏山の氷室跡である。
都祁氷室は『日本書紀』仁徳62年条に登場し、日本の氷室発祥の地と言われている。氷室の具体的な記載が1986年に長屋王(684〜729)邸跡から出土した木簡に記載されていた。和銅五年(712)日付けの木簡には氷室の形状、別の木簡には進氷量等の記載があり、都祁氷室の存在が確認された。日本書紀の記載が正しければ都祁氷室は仁徳天皇の難波京から平安京まで千年にわたり献氷を続けたことになる。ただし、日本書紀の記載の裏付け資料はなく真偽は不明である。都祁氷室の特徴として、氷室群が広範囲にわたって作られており、宮の場所によって氷室の位置が変わった可能性が高い。氷室神社から南東6あるいは3kmに位置する奈良市都祁吐山町、同市藺生町の氷室は平城京からは遠く、飛鳥・藤原京に近い位置である。また、都祁ではないが、都祁から南南東17kmの宇陀市克田野町松井に十数基の氷室跡と推定される遺構が古くから知られている。これらのことから平城京以前の飛鳥・藤原京にも大量の氷が朝廷に収められていたと思われる。
京が遠方の平安京に遷都されても都祁氷室は残された。日本書紀に記載され、長く献氷が続いたことへの尊重に加え、作氷・貯蔵に適した気候と長年にわたるノウハウの蓄積によると思われる。
時代が下がり、氷の需要が高まった明治時代に都祁でも氷作りが行われた。井上 薫 著「都祁の氷室と氷池」(ヒストリア85号、1979年)に実際に氷作りに携わった人の経験談がまとめられている。城山(貝那木山)の中腹の貝那木池で透明氷を作成する部分を抜粋する。
氷の張っている池の面の縁辺で水面の氷に丸い穴をあける。水面の氷の上に乗っている作業員は、大きな木製の杓を用い前記の穴から池水を汲み、その水を池の中心部に向かって幾度も投げかける。この動作が最もきつい作業で、身に応える。しんしんと冷えているから、池の中央部に投げかける水は氷となり、池の中央部の氷が熱くなる。その厚くなった氷を鋸で切り出し、直方体の形(高さと幅は約1尺、厚さは約三~四寸)とし、それを氷室に運んで貯蔵した。
再現氷室
長屋王跡地から発見された木簡には「都祁氷室二具、深さ各一丈(約3m)、周り各六丈(周約18m)、氷の厚さは2寸半から3寸、断熱材に用いる草束が各500束」とある。この資料を基に氷室神社から東約1.5kmの地に平成11年に氷室が再現された。2月に3トンの氷を収納し、7月の「福住氷まつり」に氷の取り出し式を行っている。
都祁󠄀氷室神社
祭神 闘鶏稲置大山主命
大鷦鷯命
額田大仲彦命
気吹戸主神
神屋楯比売命
大己貴命
水神大神
鎮座地 天理市福住町1841
国内で氷の神様をまつる最初の神社で、都祁氷室の象徴でもある。氷室神社御由緒略記(2024年3月現在)によると、「日本書紀記載の天皇に氷を献上するようになったその後、氷室神社が建立されたようである」とある。以前の御由緒書では「一千四百余年前允恭天皇三年辛酉朔正月下旬時の大臣三田ノ宿禰勅を奉じて本邦氷室濫觴の霊池たる闘鶏氷室の傍に鎮座し給ひ」とあったのが変更された。また祭神が3柱から7柱とされた。平安時代から続く氷を奉るまつりが斎行されている。