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2025年1月17日更新

平城氷室

 平城氷室は御蓋氷室とも春日の氷室とも言われ、和銅三年(710)元明天皇の勅書によって氷室を御蓋御料山に移し闘鶏大神を祀り、諸国に製氷技術を教えたとあり、平城遷都の翌年から毎年4月から9月まで平城京に献上されていた(奈良氷室神社ご由来・なら氷室冊子より)。平城遷都と同時に氷室の新設が行われたことから、朝廷にとって氷室は必要不可欠のものになっており、少なくとも奈良朝以前に制度が確立されたと考えられる。

 氷室の詳細な位置は不明であるが、天平勝宝8(756)年に作成された東大寺の寺域を示す東大寺山堺四至図に氷池、氷室谷、神地が記載されている。

>東大寺山堺四至図縮小

東大寺山堺四至図 模写本(奈良女子大所蔵)の一部

 氷池の位置は現在の水谷神社周辺にあたり、春日山(三蓋山)から春日野を通り佐保川に流れる水谷川(吉城川)の水を利用していたと思われる。また、氷室谷は浮御堂のある鷺池を含む浅茅ヶ原園地、荒池園地周辺と考えられる。ただし、水谷神社と浅茅が原までは1km弱離れており、また、都祁の氷室は直射日光を避け、水はけを確保するために丘陵地帯の森林の中に設けられていたことを考えると谷部に氷室を設けることは考えにくく、山堺四至図の氷池、氷室谷双方に氷池と氷室が設けられていたと考えられる。

 一方、氷室創設と同時に闘鶏大神を祀った場所であるが、一説に水谷神社から上流約500mのところにある月日磐を旧跡としている文献がある。例えば江戸時代の大和名所図会(巻の一 添上郡)に氷室神社旧地として月日磐があげられており、磐面に日月星の三光の形を彫むとある。月日磐は水谷川内におかれ、月と日は読み取れるが星は不明である。氷を光るものの代表である月、日、星と並べたのかもしれない。他の説として、山堺四至図に記載されている神地があげられる。この地は現在春日大社の境内であるが、春日大社の創建は神護景雲二年(768)であり、山堺四至図作成の12年後になり、もともと氷室神社があった場所に併設するように春日大社が作られたとする説である。どちらにせよ、水谷神社から浅茅が原周辺が平城氷室の中心地と考えられる。

荒池園地から春日山を望む縮小

荒池園地から春日山を望む

月日磐と水谷川縮小

月日磐と水谷川


 平城氷室は平安遷都とともに役割を終えている。平安京との距離が離れたこともあるが、都祁氷室、讃良氷室が平安京への献氷が続いたことを考えると他の要因も考えられる。氷室があったと推定される山堺四至図の氷池周辺の標高は150m前後、氷室谷は100m前後と低く、奈良時代後半の気温の上昇により氷の確保が困難になったと考えられる。さらに平城氷室は諸国に製氷技術を教えるともあり、遷都により目的が果たせなくなったことも考えられる。

奈良氷室神社

祭神 	 闘鶏稲置大山主命
 	 大鷦鷯命
 	 額田大仲彦命
鎮座地 	 奈良市春日野町1-4
創建 	 和銅3(710)年

 


 平城遷都に伴い、和銅3(710)年に春日奥山に造られた氷室に氷の神を祀ったのが始まり。七拾数年にわたり平城京に氷が献上された。平安遷都に伴い氷室の役割を終えた後、氷室を祀る形で貞観二年(860)に現在の地に奉遷された。現在も製氷関係者の信仰が篤く、5月1日に行われる献氷祭には全国各地の製氷・販売業者が参列し業績成就の祈願が行われる。大鳥居奉納寄進者芳名碑には大阪氷卸協同組合をはじめ多くの製氷会社の名が記載されている。四脚門前にある樹齢約100年の枝垂れ桜は「奈良では最も早く咲く桜」として親しまれていたが、治療のために多くの枝が切り落とされている。

 

境内のしだれ桜(剪定後)縮小

境内のしだれ桜(剪定後)縮小

境内のしだれ桜(剪定前)縮小

境内のしだれ桜(剪定前)


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