掲載日:2025年1月17日
栗栖野氷室
栗栖野氷室は平安中期の延喜式に記載のある10ヶ所の氷室の一つであり、現在の京都市北区西賀茂氷室町にあたる。氷室の詳しい成立年代は不明であるが平安遷都に伴い平安京周辺に複数の氷室が設けられた中の一つである。栗栖野氷室には、氷室神社と氷室跡と推定される三つの大型穴が現存し、京都市登録史跡に指定されている。位置的には京都御所の北北西8km弱にあり標高は370m前後である。氷室のある地域は周囲を山に囲まれた山間部にあり、京の七口の一つである長坂口から鷹峰街道を北上し、京見峠のすぐ後の氷室別れから氷室道を1km程度行けば氷室神社の前に着く。このルートが徒歩を除けば唯一の道である。なお、氷室別れの少し先の西賀茂西氷室町には土坂氷室(長坂氷室)があったとされる。
氷室別れ(右方向が氷室道から栗栖野氷室へ)
氷室神社
氷室神社の詳しい成立年代は不明であるが、主神は額田大中彦皇子に氷を献上したと伝えられる稲置大山主神で、中世以降、代々主水正を世襲し、宮中で使われる氷のことにたずさわった清原家が氷室や氷池の守護神として勧請したと伝えられる。境内の主な構成は本殿、拝殿、摂社からなり、拝殿は方一間の杮葺きで、東福門院によって寛永13年(1636年)に寄進されたもので、後水尾天皇の第二皇女が近衛家に降下されたときに造営された御殿内に建っていたものと伝えられている。本殿上部には氷室大明神の神額の両側に十六葉一重菊の透かしが施されている。痘瘡の神として信仰され、例祭は宮中に氷を献上した六月十五日とされている。摂社に関しては記載されていない。主神の稲置大山主神は氷の神であるが痘瘡の解熱のための氷が結びついたか、摂社に痘瘡に関係する神が祀られているかもしれない。また、拝殿前の案内板に藤原定家の次の和歌が紹介されている。
夏ながら秋風たちぬ氷室山 ここにぞ冬を 残すと思へば
この歌から、定家(1162-1241年)の時代には氷室が使われていたと思われる。時代が下がるが、天明七(1787)年に俳諧師秋里籬島が著した『拾遺都名所図会』に氷室神社が紹介されているが、氷室に関しては「いにしへ此処に氷室あり」と記載されており、拾遺都名所図会が記載されたかなり以前に使用されなくなったと考えられる。また、延喜式に見える氷室が、山城及び諸国に五百九十六所あったが、多くは廃して今わずかに残れりとある。また、氷室神社と周辺の風景が描かれているが、田園風景は現在とほとんど変わっていない。氷室神社に関しては配置は同じであるが、現在は一つの社で祀られている摂社が小ぶりな二つの社からなっている。
氷室跡
氷室神社より北へ約150m進んだところに氷室跡への矢印案内板があり、案内板に従って畦道を100mほど進むと氷室跡にたどり着く。氷室跡には氷の貯蔵に使用されたと思われる大型穴が三基残っている。大型穴の直径は6m前後で、深さは1~2mである。都祁の氷室跡の中規模のものに相当し、丘陵地帯の斜面、下部の平坦部(水田)から数mの高さに設けられている点で類似している。推測であるが、厳冬期に水田を氷室池として使用し氷を大型穴に運んだものと考えられる。