更新日:2025年1月17日
氷室の変遷
今日、氷を含め冷凍食品は生活に溶け込んでおり入手はもちろん家庭でも容易に作ることができる。氷を人工的に製造可能になったのは約200年前で、国内では1870年に福沢諭吉の解熱のために福井藩主であった松平春嶽公所有の冷凍機での製氷が最初とされている。これ以前は自然氷あるいは雪を貯蔵し必要なときに取り出して用いられていた。自然氷あるいは雪の貯蔵に用いられたのが氷室である。雪の場合雪室とも呼ばれる。
国内で最初の氷室の記録は『日本書紀』仁徳天皇62年条にある次の文面である。
「額田大中彦皇子が、闘鶏(つげ:現在の奈良県天理市福住町、奈良市東部の旧都祁村一体)に猟された時、野中に盧叢のようなものを見つけ、闘鶏の稲置大山主命に問われたところ、「氷室といい、土を丈余掘ってあつく茅萩を敷き、氷をその上に置きその上を草で覆っておくと夏になってもとけません。暑い月に酒に漬して用るものです」と答えた。皇子はその氷を持ち帰って天皇に献じられ、天皇はこれを喜ばれた。これ以後冬期に氷を貯蔵し春分に至って始めて之を散す…」
宋書に登場する倭国の五代の王の一人が仁徳天皇とすれば5世紀初頭にあたり、国内では記録に残る最古の氷室になる。都祁氷室神社の駐車所の一角に氷室発祥の碑が立っている。氷室の発祥時期については他の資料がなく確認されていない。氷室跡と推定される遺構が都祁地方に加え、より飛鳥・藤原京に近い宇陀市にも氷室伝承地に加え氷室跡と推定される大型穴があり、仁徳天皇時代の難波京はともかく藤原京あるいは飛鳥京まではさかのぼれる可能性がある。
氷室発祥の碑
1986年に長屋王(684〜729)邸跡から出土した木簡に氷室の形状、搬送が記載されたものが発見された。木簡には都祁氷室二具、深さ各一丈、周囲各六丈、取水水一室三寸、一室二寸半、各五百束の草で覆うとあり、日本書紀の記載に近い。仁徳天皇と長屋王では300年近い開きがあるが、日本書紀の成立は養老4年(720)で長屋王の時代と同時期であり、日本書紀編集時に実際の氷室を考慮して書かれたことも否定できない。別の木簡では氷の搬送状態が記載されており、都祁氷だけで16駄(1トン程度と推定)に及んでいる。ここに記載されている都祁氷室は長屋王の私設のものと言われており、主水司が管理する公営の氷室を含めると膨大な量の氷が運ばれていたことになる。天平宝字四年(760)六月十五日付土師男成銭用文(大日本古文書14巻)には平城京の市で氷を三十八文で贖い、運送の功賃として五十文を充てるとある。 三十六文が高いかどうかは購入量が不明であるために判断できないが、運送費用より低いことからそれほど高額とは思えない。官営の市で氷の売買がされていたことは特権階級だけでなく広く活用されていたと思われる。
長岡京を経て794年に平安京に遷都され、それに伴い京都周辺に多くの氷室が創設された。平安中期の延長五年(927)完成の延喜式には次の十か所が記載されている。
- 山城国葛野郡 徳岡氷室
- 山城国愛宕郡 小野氷室
- 山城国愛宕郡 栗栖野氷室
- 山城国愛宕郡 土坂氷室
- 山城国愛宕郡 賢木原氷室
- 山城国愛宕郡 石前氷室
- 大和国山辺郡 都介氷室
- 河内国讃良郡 讃良氷室
- 近江国志賀郡 部花氷室
- 丹後国桑田郡 池辺氷室
延喜式記載の氷室と推定地
平安時代になると多くの文献で氷室あるいは氷の記載がみられる。清少納言の枕草子にはあてなるもの(上品なもの」として以下のものが記載されている。
「薄色に白襲の汗衫。かりのこ。削り氷にあまづら入れて、新しき鋺に入れたる。水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪の降りかかりたる。いみじう美しき児の、いちごなど食ひたる。」
また、紫式部の源氏物語には夏の食事として以下のものが記載されている。
「大御酒参り、氷水召して、水飯など、とりどりにさうどきつつ食ふ。」
上記以外にも多くの貴族の日記に記載されており、暑い京都の夏を乗り切るアイテムになっていた。しかし、鎌倉、室町と時代が下ると朝廷の力が衰退し氷室の維持管理が困難になり衰退していく。これに代わって将軍、藩主への献氷が多くなる。代表的なものとして加賀前田家の献上氷がある。 旧暦6月1日に、冬の間に氷室で貯蔵した雪氷を江戸まで120里(約480km)を飛脚たちが昼夜4日間かけて運んだもので、「六つの花 五つの花の御献上」と川柳にも読まれている。また、江戸後期になると、地域が限定されるが庶民にも氷が入手できるようになる。小林一茶の句に「八文で家内が祝ふ氷かな」をはじめ夏氷に関する句が多くある。一茶が過ごした信濃、あるいは献上氷の金沢では比較的容易に氷が入手できた。
幕末になると開国による居留地での氷の需要が急増し、一時は米国のボストンから氷を輸入していた。これに対し、1869年に中川嘉兵衛は五稜郭で採氷した氷を京浜地区への輸送・販売に成功し、ボストン氷を駆逐するようになる。これ以降国内でも天然氷の製氷業者が増加し、都祁あるいは讃良氷室があった地域でも復活した。しかし、冷凍技術の発達により人口氷が増加し、天然氷は昭和の初めごろにほとんどなくなり、現在、天然氷のブランドで数社が残っているに過ぎない。
都祁氷室に関しては川村和正氏の「都祁氷室に関する一考察」、平城氷室に関しては奈良氷室神社発行の小雑誌「なら氷室」に詳しく記載されている。